
「点」と「線」は、私の頭の中にあった
以前、このサイトに「私は、言葉で考えていない」と書きました。

それに気づいたときは、それ以上のことはあまり分かっていませんでした。
言語心理学を学んでいて、自分の思考に「言語」が使われていないことに気づく。
そこからそもそもの言語心理学の元の認知心理学に注目していきます。
人が、ものを見たり、聞いたり、記憶したり、考えたり、判断したりするときに、頭の中でどのような情報処理が行われているのかを研究する心理学の分野です。
「人はどうやって知り、考え、理解しているのか」を扱う学問、と考えるとわかりやすいかもしれません。
私はどうやら言葉で考えてないらしい。
では、何で考えているのか。
自分でも、よく分からない。
ただ、昔から「点と線」という言葉をよく使っていました。
何かを学んだときも、読書をしているときも、手帳について話しているときも、「点がつながって、線になる」というようなことを、ずっと言っていたのです。
でも、それはあくまで説明のための比喩だと思っていました。
ところが最近、その「点と線」が、どうやら本当に自分の頭の中で起きていることなのではないか、と思うようになりました。
きっかけは、『ヴィジュアルシンカーの脳』という本でした。
そこで「空間視覚思考者(パターン・シンカー)」という言葉に出会いました。
パターンを捉えて考える人。
なるほど。
……で?
「抽象的な概念を使って考える」と書かれている。
空間視覚思考者、絵でなくパターンや抽象的な概念で考える人たちだ。
テンプル・グランディン『ヴィジュアルシンカーの脳』
私の場合、頭の中に絵が浮かぶってことではないのは確かなのです。なのでもともとこの『ヴィジュアルシンカーの脳』という本のことも知ってはいたのですが、「いや、私、絵で考えてるわけじゃないのよ」としばらく手に取らなかったくらいです。
で、いろんな本を読み漁って、どうにもこうにも追い詰められてとりあえず違うけど、読んでみよう。と思って開いたら、ヴィジュアル・シンカーに2種類あるって書いてる!あ、でたぶん、私こっちのパターン・シンカー!とやっと自分の思考が認められた気持ちになったものです。
そうそう。絵じゃなくて、なんかもっと抽象的な概念なのよ。
オックン。教授そうは言っても、抽象的な概念って、何よ?
抽象的な概念と言っても、自分の頭の中で起こっていることです。
もう少し言語化できるはずです。さすがに人に説明するときに「私は抽象的な概念を使って考えてるんですよ」と言ったところで、全く理解してもらえないでしょう。



私は、いったいどうやって考えているんだろう。
すると、出てきたのが「点」でした。
何かが、ぽん、と現れる。
その時点では、それが何なのかよく分からない。
でも、なぜか気になる。
しばらくすると、別のところにもう一つ点が現れる。そして、あるとき、その二つの点がつながる。
線になる。
さらに点が増えて、線が増えていく。
線と線の関係が見えてきて、平面のようになったり、そこから立体的な構造が立ち上がったりする。
そこで初めて、「ああ、そういうことだったのか」と分かる。
そして、そのあとで言葉になる。
あれ?
これって、私がずっと「点と線」と言っていたこと、そのものじゃないか。
私にとっては、ずっと「点と線」というのが一番しっくりくる説明だった。
そして、さらにおかしかったのが、そのあとでした。
過去の記事、講義説明、発言の数々・・・



私、ずっと「点と線」って言ってるやん。
たとえば、2013年に書いた「今、何もかもすべてが分かる必要はない」という記事では、手帳に打つ「点」について書いていました。


点を打っているときは、その意味が分からないことがある。
そのときに、その意味が分からなくてもいい。
そんなことを、10年以上前の私は書いている。
別に「パターン・シンカー」という言葉を知っていたわけでもありません。
非言語思考について考えていたわけでもない。
ただ、自分が実際にやっていることを「点」と「線」と呼んでいた。
なぜ、手帳に「点」を置くのか
そう考えると、私が手帳に書いてきたものの意味も、少し違って見えてきます。
私は、手帳にすべてを文章で記録したいわけではありません。
むしろ、何かが引っかかったときに、それを「点」として置いておきたい。
そのときは、意味が分からなくてもいい。
「なんか気になった」
「この言葉、残しておこう」
「今日、妙にこれが引っかかった」
それだけでもいい。
なぜなら、その点が何なのかは、その時点ではまだ分からないからです。
あとになって別の出来事が起きたとき、「あれ?」となる。
そして、過去の点と今の点がつながる。
そこで初めて、線が見える。
心理学で「言語隠蔽効果」という現象があります。
簡単にいうと、もともと持っていた非言語的な情報を言葉で説明することによって、かえってその情報の再現などが妨げられることがある、というものです。
もちろん、これだけで「だから私はこうなんだ」と結論を出すつもりはありません。
でも、「だから、私は意味を決めずに点で置いていたのかもしれない」とは思いました。
最初から、「これは○○という意味です」と文章にしてしまうと、そこで意味が固定される。
でも、「なんか気になる」という状態のまま残しておけば、あとから別の点とつながる余地がある。
もしかすると私は、ずっとその余地を残していたのかもしれません。
読書も、たぶん同じ
考えてみると、読書もそうでした。
私の本の読み方はいくつかあるのですが、さっと内容を知りたいという本を読むとき、こんな読み方をしています。
文字を追わない。
ページ全体を見る。
「点」が浮かんでくる。
いくつかの点に線が伸びる。
そこに構造が見えてきて、さらに理解が進むと、平面だったものが、立体になる。
だから私は、本の内容を最初から順番に理解して、その理解を積み上げているというより、点を拾って、あとから関係を見つけているのかもしれません。
セッションでも、同じことをしている
そして、もっと面白いことに気がつきました。
私が人の話を聞いているときも、たぶん同じことをしています。
セッションでは、最初に「悩み」を話してもらうことが多い。
でも、話を聞いていると、「……あれ?」と思うことがあります。
「問題、そこじゃないんじゃない?」と思う。
本人が一番大事だと思って持ってきた話とは別のところに、何かが引っかかる。
それは、ものすごく重要な発言とは限りません。
むしろ、雑談のようなところから出てくることもある。
何気ない言葉。
言わなかったこと。
話す順番。
同じ言葉が何度も出てくること。
言っていることと、実際にやっていることのずれ。
そういうものが、私の中では「点」になっているのかもしれません。
そして、いくつかの点がつながったとき、「ああ、この人はこういうところで引っかかっているのかもしれない」という構造が見えてくる。
だから最近、「悩みを話してください」ではなく、「手帳を見せてください」というところから始めるセッションも、いいのではないかと思っています。
手帳には、その人が実際にどう時間を使っているかが残っているからです。
何を書いているか。
何を書いていないか。
どこだけ妙に細かいか。
どこが空白なのか。
予定の入れ方。
記録の仕方。
そういうものを見ると、本人がまだ言葉にしていない「点」が見えることがある。
これは、手帳を見ればその人のことが全部分かる、という話ではありません。
そうではなくて、言葉になる前のものを、一緒に観察することができる。
そのほうが、私自身の仕事の仕方にも合っているのだと思います。
「わかる」の正体は、まだ分からない
そういえば、セッションの予約が入った段階で、「この人には、たぶんこれを話したほうがいい」と、なんとなく分かっていることがあります。
予約メールを読んだだけで、「この人、当日来ない気がする」と思って、実際に来なかったこともあります。
これについては、まだ私自身もよく分かりません。
長年、人の話を聞いてきた経験値なのかもしれない。
文章の癖や、言葉の選び方、タイミング、何かの組み合わせを無意識に拾っているのかもしれない。
あるいは、別の仕組みがあるのかもしれない。
ここは、まだ研究中です。
少なくとも私は、説明できないことをすぐに「特殊能力」ということにはしたくない。
分からないなら、分からないまま観察してみる。
それも、私にとっては「点を置く」ということなのだと思います。
10年以上かけて、自分の取扱説明書を書いていた
振り返ってみると、少しおかしくなります。
私はずっと、「点と線」と言っていた。
手帳にも点を置いていた。
読書でも、点が勝手に浮かんでくる。
人の話を聞いていると、何気ない言葉が点になっていた。
タロットをするときには、話を聞いているだけで頭の中にカードの配置が浮かんでくる。
ホロスコープも、正確な図を画像として覚えているというより、話を聞きながら盤面が動くような感覚がある。
そして今になって、「パターンシンカー」という言葉に出会った。「言語隠蔽効果」という現象を知った。
構成主義や身体性認知について書かれた本を読んで、「これも、自分が経験してきたことに近いな」と思う。
理論を知って、自分をそこに当てはめているというより、自分が先にやっていたことに、あとから説明する言葉がついてきている。
そう考えると、今までの10年以上が、ちょっと面白く見えてきます。
昔の自分は、何が起きているのかよく分からないまま、点を打っていた。
今の自分が、その点を拾っている。
そして、いくつかの点がつながってきた。
もしかすると、今やっているのは「自分を新しく定義すること」ではないのかもしれません。
ずっとそこにあったものの構造を、あとから見つけている。
そう考えると、「点は、あとから線になる」というのは、手帳の話だけではなかったのかもしれません。
私自身が、そうやって自分のことを理解してきたのだから。
……ということで。
どうやら私は、10年以上かけて、自分で自分の取扱説明書を書くという、壮大な自作自演をやっていたようです。
しかも、その説明書を書いていた本人が、「へえ、私ってこんなふうに考えてたんだ」と、今さら読者になっている。
人生、なかなか気の長い伏線回収です。







